〜なぜ下の奥歯の治療は難しいのか?〜
歯科治療を受けた経験がある方なら、一度は「麻酔が効きにくかった…」という体験をしたことがあるかもしれません。特に「下の奥歯の治療では麻酔がなかなか効かず、何度も打ち直された」「麻酔しているのに痛かった」という声は少なくありません。
今回は、歯科医師の立場から見ても“難敵”とされる「下顎の臼歯部(奥歯のあたり)」の麻酔の難しさについて、詳しく解説していきます。
下顎の臼歯部は、なぜ麻酔が効きにくいのか?
1. 骨が硬くて厚い
下顎の臼歯部は、上顎に比べて骨がとても硬く、密度も高いという特徴があります。このため、通常の表面からの浸潤麻酔(いわゆる「歯ぐきにちょっとチクっとする注射」)では麻酔薬が神経まで届きにくく、痛みを感じやすいのです。
上顎の場合、骨が比較的薄いため、歯の近くに麻酔をすれば神経まで薬が届きやすく、効きも良好です。しかし下顎の場合、歯の根の周囲を取り囲む骨が“分厚い装甲”のように神経を覆っているため、表面からの麻酔では歯の神経まで薬が届かず、しっかり麻酔できないことがあります。
2. 神経の走行が深い位置にある
下顎の臼歯は「下歯槽神経(かしそうしんけい)」という太い神経の支配を受けています。この神経は下顎骨の内部をトンネルのように走っており、しかもその入り口(下顎孔)はかなり奥まった位置にあるため、直接麻酔薬を届けるには特殊な技術が必要になります。
そのため、表面的な麻酔では効果が出にくく、「伝達麻酔(でんたつますい)」という奥の神経根元に近い部位に麻酔薬を届ける方法が用いられます。
伝達麻酔:効くけど難しい技術
下顎の臼歯に対する麻酔でよく用いられるのが「下顎孔伝達麻酔」です。これは、下顎骨の内側にある「下顎孔(かがくこう)」という神経の入口近くに、ピンポイントで麻酔薬を届ける高度な技術です。
この麻酔がうまく決まれば、下顎の奥歯から舌の半分、下唇の半分までがしっかりと麻痺し、無痛で治療が可能になります。
しかし、この麻酔には以下のような難しさがあります:
- 解剖学的な位置が患者によって微妙に異なるため、正確な位置を探る必要がある
- 注射針を深く刺す必要があり、患者の恐怖心や緊張が強くなりやすい
- 麻酔の効果が現れるまで5〜10分程度かかる場合がある
- 一部の患者では「変異神経」があり、伝達麻酔でも完全に効かないことがある
つまり、伝達麻酔は「効けば最強、外せば最悪」というリスクと隣り合わせの麻酔法でもあるのです。

麻酔が効かないとどうなるか?
麻酔が十分に効かないまま治療を進めると、当然ながら患者さんには痛みを伴います。「麻酔しているのに痛い」という経験は、患者さんにとって非常にストレスフルですし、歯科医師としても良い治療環境とは言えません。
こうした状況に陥ると、
- 麻酔の打ち直し(追加麻酔)
- 麻酔が効くまで時間をおいて待機
- 一時中断して後日再治療
といった対応を迫られることもあります。これにより、治療時間が延びたり、治療スケジュールが遅れたりすることも。

効かないときの工夫や対処法
歯科医師は、麻酔が効きにくい患者さんに対して、以下のような工夫をしています。
1. 伝達麻酔+浸潤麻酔の併用
まず伝達麻酔を行い、加えて歯の周囲に局所浸潤麻酔を加えることで、より確実に痛みをブロックする方法です。これにより、神経へのアプローチと局所の痛覚遮断を同時に行えます。
2. 静脈内鎮静法(セデーション)の利用
極度に緊張している患者さんでは、麻酔が効きにくくなる傾向があります。そのため、必要に応じて静脈内鎮静法(軽く眠るような状態にして恐怖心を和らげる)を用いることもあります。
3. 電動注射器での麻酔
手動で注射するよりも、電動注射器を使って一定の圧でゆっくり注入した方が、痛みが少なく、麻酔薬の拡がりも良いとされています。
4. 痛みの予測と事前説明
麻酔が効きにくい可能性を事前に説明し、「痛かったら手を挙げてください」「必要に応じて追加麻酔します」と伝えることで、患者さんの不安を和らげる効果もあります。

患者さんに知っておいてほしいこと
下顎の奥歯の治療で「麻酔が効きにくい」と言われても、それはあなたのせいではありません。むしろ、誰にでも起こり得る「解剖学的な個人差」の影響なのです。
もし過去に「麻酔が効かなくて痛かった」経験があるなら、そのことを遠慮なく歯科医師に伝えてください。事前に情報があれば、麻酔方法の選択や時間配分を調整し、より安全で確実な治療につなげることができます。
まとめ
下顎の臼歯部の治療は、歯科医にとっても患者にとっても「緊張する瞬間」と言えるでしょう。麻酔が効きにくい原因は、骨の硬さ、神経の走行、個人差、そして解剖学的な変異などさまざまです。
しかし、適切な技術と丁寧な対応によって、痛みを最小限に抑えることは可能です。「麻酔が効きにくい体質かも…」と感じている方こそ、ぜひ歯科医院でその経験を共有し、無理なく安心して治療を受けられる環境づくりに一歩踏み出してみてください。