「明日から海外旅行なのですが、歯が腫れています」
歯科医院では、ときどきこのような相談を受けることがあります。
患者さんとしては、
「旅行中に痛くなったら困るから、抗生物質や痛み止めを多めにもらっておきたい」
と思うのは当然でしょう。

ところが、歯科医院では希望されたからといって、抗生物質や痛み止めを何週間分も「予備」として処方できるとは限りません。
これは単に歯科医師が薬を出したくないからではありません。
今回は、歯科で行う投薬と健康保険のルールについて考えてみましょう。
〇歯茎が腫れている原因は?
ある患者さんが、
「先生、ここの歯茎が腫れてしまったんです」
と来院しました。
レントゲン写真を撮影すると、ある歯の根の先、つまり「根尖」の周囲に黒い影が認められました。
歯の内部に細菌が入り込み、それが根の先まで到達すると、根尖周囲に炎症が起こることがあります。
炎症が慢性化すると、その周囲の歯槽骨が吸収され、炎症性の組織などに置き換わります。その結果、レントゲンでは根の先に黒い影として見えることがあります。
さらに急性化すると、
・歯茎が腫れる
・噛むと痛い
・歯が浮いた感じがする
・膿が出る
・顔まで腫れる
といった症状が現れることがあります。
このような状態では、必要に応じて排膿などの局所処置や根管治療を行い、感染源そのものに対処することが重要です。
腫れの程度や全身状態などによっては抗菌薬を使用することもあります。
しかし、ここで大切なのは、
「抗菌薬を飲めば歯そのものが治るわけではない」
ということです。

抗菌薬によって急性炎症が落ち着いても、感染源が根管内に残っていれば、再び症状が出る可能性があります。
〇根本的には根の治療が必要
今回のように根管内の感染が原因と考えられる場合には、状態が落ち着いたところで根管治療、あるいは過去に根管治療を受けた歯なら再根管治療を検討します。
根管内の感染した組織や細菌を除去し、洗浄・消毒して、最終的に根管を封鎖していきます。
ただし、根管治療は必ず1回で終わるとは限りません。
感染の程度、根管の形、以前の治療状態などによって治療期間や回数は大きく異なります。
数回程度で終了することもあれば、難しい症例では1か月以上、場合によっては数か月にわたって治療が必要になることもあります。

〇ところが明日から海外旅行……
ここで患者さんからこんな話が出ました。
「実は明日から2週間、海外旅行なんです」
これは歯科医師としても悩むところです。
「それなら今日、根の治療を始めればいいのでは?」
と思うかもしれません。
しかし、必ずしもそれが最善とは限りません。
根管治療によって感染源を除去することは、長期的には必要な治療です。
一方、治療直後には一時的に痛みが強くなったり、腫れたりすることがあります。いわゆる術後症状やフレアアップが起こる可能性もゼロではありません。
もちろん、治療によって症状が改善することもあります。
問題は、
「治療したから明日から絶対に腫れません」
とは保証できないことです。
しかも翌日から海外へ行ってしまえば、症状が変化しても治療した歯科医師が直接診察することができません。
そのため、出発直前という特殊な状況では、その時点の症状や検査結果などを踏まえ、積極的な治療を開始するか、応急的な対応にとどめるかを慎重に判断する必要があります。

〇「それなら薬をたくさんください」は可能?
そこで患者さんから、
「旅行中に腫れたら困るので、抗生物質を2週間分ください」
と言われたとします。
しかし、ここに健康保険診療の重要な原則があります。
保険診療では、薬は患者さんが希望する量を自由に処方するものではありません。
保険医療養担当規則では、投薬は必要があると認められる場合に行い、投薬量についても「予見することができる必要期間」に従うことが求められています。
つまり、
「必要な病気に対して、医学的に必要と判断できる期間の薬を処方する」
というのが基本なのです。
したがって、
「海外旅行に行くので、使うかどうか分からないけれど念のため多めにください」
という理由だけで、現在の病状から必要性を説明できない大量の薬を健康保険で処方することは適切ではありません。

〇歯科では「3日分まで」という決まりがある?
ここは誤解されやすいところです。
「歯科では抗生物質は3日分までしか出せない」
という全国一律の健康保険のルールがあるわけではありません。
必要な期間は病気や症状によって判断します。
ただ、一般的な急性の歯性感染症では、長期間漫然と抗菌薬だけを飲み続けることが治療の中心になるわけではありません。
歯科疾患の多くでは、
「原因となっている歯を治療する」
「膿を出す」
「感染した根管を治療する」
「必要なら抜歯する」
といった局所的な処置が非常に重要です。
抗菌薬は、それらに代わるものではありません。
むしろ現在は薬剤耐性菌の問題もあり、
「抗菌薬は必要な場合に、適切な薬を、適切な期間使用する」
という考え方が重視されています。

つまり、3日で足りないようだったら、3日後の状況を確認して必要と判断された場合に追加で処方をするのです。
〇医科では1か月分の薬をもらえるのに?
患者さんから、
「でも内科では1か月分の薬をもらっていますよ」
と言われることがあります。
これは病気の性質が違うからです。
たとえば高血圧などの慢性疾患では、医師が診察した時点で、その後も継続的に薬が必要になることを予測できる場合があります。
その場合、医学的に必要と判断された期間について処方することができます。
つまり、
「医科だから長期間処方できる、歯科だからできない」
という違いではありません。
ポイントは、
その薬が、その患者さんに、その期間、本当に必要であると医学的に判断できるかどうか
なのです。
歯科でも、病状によって長期間の投薬が医学的に必要であれば、それに応じた処方を行う場合があります。

〇旅行中に症状が出た時の「予備の抗生物質」は?
では、
「今は落ち着いているけれど、旅行中に腫れるかもしれないから7日分余分にください」
という希望はどうでしょうか。
ここは慎重に考える必要があります。
実際に腫れた時、その原因が現在診断している歯とは限りません。
また、
・どの程度腫れているのか
・膿がたまっているのか
・発熱があるのか
・薬だけで対応できる状態なのか
・切開や根管治療が必要なのか
・抜歯が必要なのか
・別の病気ではないのか
といったことは、その時点で診察しなければ判断できません。
そのため、
「もし腫れたら自己判断で飲んでください」
という前提で抗菌薬を多量に渡しておくことは、抗菌薬の適正使用という観点からも慎重でなければなりません。
これは単純に「健康保険ではダメだけれど、自費なら何日分でも自由に処方できる」という問題でもありません。
自由診療であっても、歯科医師には医学的に妥当な診療・処方を行う責任があります。
したがって、保険診療分とは別に「旅行用の予備薬」として抗菌薬を希望された場合も、患者さんの希望だけで自動的に処方できるわけではありません。

〇「自費なら何でも処方できる」わけではない
ここも非常に重要です。
健康保険が使えなければ、
「では自費で薬を買えばいい」
と思われるかもしれません。
しかし、処方薬は市販品とは違います。
歯科医師は診察を行い、その患者さんにその薬を使用する医学的な必要性を判断したうえで処方します。
したがって、
「自己責任で飲むから、とにかく抗生物質をたくさんください」
という希望だけで処方できるものではありません。
保険か自費かという問題と、
医師・歯科医師としてその薬を処方することが医学的に適切か
という問題は別なのです。

〇長期旅行の前には歯科受診を早めに
今回のケースで一番重要なのは、実は薬の処方日数ではありません。
海外旅行など長期間歯科医院を受診できなくなる予定がある場合は、できるだけ早めに歯科を受診しておくことです。
出発前日に、
「歯茎が腫れています。明日から2週間海外です」
となってしまうと、歯科医師が選択できる治療方法も限られてしまいます。
一方、数週間前に受診していれば、原因を調べ、必要な治療を開始し、治療後の状態を確認してから出発できる可能性があります。
特に、
・以前治療した歯が時々腫れる
・噛むと違和感がある
・歯茎にニキビのようなものができる
・疲れると歯が浮いた感じがする
・以前からレントゲンで根の先に病変を指摘されている
という方は要注意です。
「今は痛くないから大丈夫」と考えず、旅行前に一度確認してもらうことをおすすめします。

〇まとめ
「なぜ歯科では長期間の薬を出してくれないの?」
その答えは、
「歯科だから長期処方が禁止されているから」ではありません。
健康保険では、病状に応じて医学的に必要と判断される投薬を行い、その量も予見できる必要期間に従うことが基本となっています。
慢性疾患などで長期間の服薬が必要と判断できるのであれば、医科では1か月以上の処方が行われることがあります。
一方、急性の歯性感染症では、抗菌薬を長期間飲み続けることよりも、感染源となっている歯そのものへの治療が重要です。
また、
「旅行中に使うかもしれないから」
という理由だけで、必要性が確認できない将来分の抗菌薬を大量に処方することは、健康保険上だけでなく抗菌薬の適正使用という観点からも問題があります。
そして、
「保険で出せないなら自費なら何でも出せる」
というわけでもありません。
旅行中に歯が痛くなってしまうと、せっかくの旅行が台無しになってしまいます。
海外旅行や長期出張を予定している方は、
「出発直前に薬をもらえばいい」ではなく、「余裕をもって歯の状態を確認しておく」
ことが一番の対策なのです。
























