歯が痛い。グラグラしている。でも「抜きたくない」。多くの方が、そう考えて歯科受診をためらったり、治療を途中で止めたりしてしまうことがあります。しかし、「抜かずに済ませたい」という思いが、時に命を脅かす結果を招くことがあることをご存知でしょうか。
今回は、感染源となった歯を放置したことで発症した「蜂窩織炎(ほうかしきえん)」という病態について、実際の症例を交えながら解説します。
蜂窩織炎とは?
蜂窩織炎とは、皮膚や皮下組織の広い範囲に細菌感染が波及する炎症性疾患です。顔面、特に顎周囲で起きた場合、**歯性感染(歯が原因)**によることが多く、早期に適切な治療を行わなければ、気道閉塞や敗血症など生命に関わる合併症を引き起こす恐れがあります。
原因菌の多くは、連鎖球菌や黄色ブドウ球菌で、これらが虫歯や歯周病、根尖病巣などから顎骨、筋膜間隙に広がっていくことで蜂窩織炎を発症します。
症例:60代男性「歯が痛いが抜きたくない」
ある60代の男性Aさん。半年以上前から右下の奥歯に違和感があり、徐々に痛みも感じていました。歯科医院で「抜歯が必要」と言われたものの、「もう少し様子を見たい」と治療を先延ばしに。仕事が忙しいこともあり、通院が途絶えてしまいました。
数か月後、右の頬が腫れて痛みが悪化。市販の鎮痛薬でごまかしていたところ、ついに顔全体が腫れ、口もほとんど開かなくなり、発熱も出現。家族に連れられて病院の救急外来を受診しました。
血液検査では白血球数の上昇、CRP(炎症反応)の急上昇が見られ、CT検査では右側の下顎骨周囲に**広範な軟部組織の腫脹と空気像(膿瘍形成の兆候)**が確認されました。診断は「歯性蜂窩織炎」。
抗菌薬の点滴とともに、感染源である右下奥歯の緊急抜歯と排膿手術を実施。幸い、呼吸障害や敗血症には至らず、2週間の入院加療の後、退院となりました。

放置が招く重大リスク
歯性感染による蜂窩織炎は、単なる「歯の痛み」では済まされません。とくに下顎から発症した場合、舌下部(舌の下)へ炎症が波及すると気道が腫れて閉塞し、窒息のリスクすらあります。これをルートヴィヒ型蜂窩織炎と呼び、緊急気管切開が必要になることもあります。
また、感染が血流に乗って全身に拡がると敗血症となり、臓器不全を引き起こす危険性も。高齢者や糖尿病などの基礎疾患を持つ人では、重症化のリスクがさらに高まります。
なぜ「抜歯」を恐れるのか?
多くの方が「歯を抜くのが怖い」「もう少し我慢すれば治るのでは」と考えてしまいます。確かに歯は大切な体の一部であり、できれば残したいという思いは自然なことです。
しかし、感染源となった歯は“腐った柱”のようなもので、放っておけば周囲の組織にもダメージを与え、やがては全身に悪影響を及ぼします。特に根の先に膿がたまり、骨や筋肉にまで感染が拡がっている場合、抗生物質だけでは感染を制御できません。このような場合、感染源を物理的に除去(抜歯や排膿)しなければ、回復は見込めないのです。

蜂窩織炎を防ぐためにできること
蜂窩織炎は重篤な疾患ですが、適切なタイミングでの歯科治療で未然に防げる病気でもあります。以下の点を心がけましょう:
- 歯の違和感は早めに相談する
軽い痛みや腫れでも、放置せず歯科を受診しましょう。 - 抜歯が必要と判断されたら納得の上で早めに実行する
セカンドオピニオンを活用しても構いませんが、治療の先延ばしは危険です。 - 基礎疾患がある人は特に注意を
糖尿病、免疫抑制状態のある方は、軽度の感染でも重症化しやすいため、歯科感染症の早期対応が重要です。 - 治療中断をしない
痛みが引いたからといって治療を途中でやめるのは、感染の再燃を招く原因になります。
まとめ:「抜きたくない」が命取りになることも
歯のトラブルは見た目の問題や痛みだけではなく、全身に影響を及ぼす重大な疾患へと発展することがあります。「抜きたくない」と思う気持ちは分かりますが、感染源をそのままにしておくことは、火種を体内に抱え込むのと同じです。
歯は大切ですが、命はもっと大切。医師や歯科医師の説明をよく聞き、自分の体を守るために、適切なタイミングでの判断と行動を心がけましょう。
参考文献・医療機関情報(任意)
- 日本口腔外科学会『口腔顔面領域の感染症に関するガイドライン』
- 厚生労働省『歯性感染症のリスクと対策』
- ○○大学病院 口腔外科(公式ウェブサイト)