◆佐藤歯科院長の生い立ち

少しでも私のことを知っていただければと思い、プロフィールを作成しました。拙い文章ですが、医院にお越しになる前に、ぜひお読みください。

院長の生い立ち

昭和38年3月1日に、佐藤歯科2代目 院長 佐藤裕の長男として出生しました。

私の出生当時、初代佐藤歯科 院長である祖父の佐藤文悟は川崎にて開業。そして、父の裕は、東京・荻窪にて開業をしていました。

( 後に、祖父と父は、川崎にて力を合わせて診療にあたるようになります。 )


院長の生い立ち

写真は、父が開業をした荻窪診療所の風景です。

開業当時、父は小説に凝っており、時間さえあれば、推理小説を書いて懸賞に応募したりしていたそうです。私が小学生の頃、「あの時、懸賞に通っていたら今頃おまえは小説家の息子だ」。と父が良く言っていたことは、今でも良き思い出です。

また、凝り性の父は、ワインに興味があった時期は、外国のワイナリーまで視察に行ったり。

茶道に興味が会った時は、裏千家の茶道教室に通いつめたりと、その道を極めるまで、とことん没頭する性格でした。

私の性分の1つに「凝り性」というのが挙げられますが、このような父を見て育ったことが大きかったと感じています。



幼少期

ニックネームは「毛が3本」 院長の生い立ち

私は、生まれた時から、かなりの薄毛で、近所でも有名な毛無しBABYだったそうです。しかも、なかなか毛が増えないということで、両親も心配していたようです。

当時のエピソードとして、家族3人で行った横浜の山下公園での散歩話しがあります。


院長の生い立ち

当時は、軍服姿のGI(アメリカ兵)を良く見かけたそうです。乳母車の中にいる私を見たGIが「Hey! This is Sweepea!」と言って、指をさして笑ったなんてこともあったそうです。Sweepea とはアニメのポパイに出てくる甥っ子の赤ちゃんのことですね。

親族の間では、「毛が3本」なんて呼ばれ方をしたこともありました。




小学生時代

受験戦争

荻窪で開業していた父が、川崎で開業していた祖父の歯科医院にて、一緒に診療していくようになりました。理由は、祖父が業務拡大の為、信頼できる人間が欲しく、呼び寄せたそうです。 これに伴い、私は、通っていた東京の目黒区立中目黒小学校から、横浜に引っ越し、篠原西小学校に転校となりました。

今では、「中学受験」も当たり前のようになりましたが、当時の篠原西小学校は、受験とは無縁の小学校でした。しかし、私は、中学を受験するという強い親の方針で、小学校5~6年生から塾通うようになりました。

塾通いのきっかけは、私の自発的な行動ではありませんでしたが、「塾に行きたくない。」や、「塾の勉強が大変。」などと思ったことは、私の場合、一度もありませんでした。 もちろん、放課後に学校の友達と遊ぶ機会は、少なかったですが、塾の友達に会えることで寂しさはカバー出来ていたのかも知れません。

院長の生い立ち

そして何より、好奇心の強い私にとって、塾での勉強は、学校では習わないような新しい事、知らない事を知る喜びで、毎日が楽しかった記憶です。

しかし一方で、つまらないことには全く興味が湧かず、授業中にふざけたりして、宿題を忘れたりして、先生に怒られたこともありました。

ボールペンに強い興味を持ってしまったのでしょうか。授業中に突然ボールペンに、中のインクを吸い上げて口の中を真っ赤っかにし、先生に怒られたなんて経験もあります。授業の内容に興味がなければ、全く関心を持たず、少々の悪ふざけをしてしまう。

興味を持ったら、とことん楽しむ。そんな小学生でした。

また、「佐藤君は塾で勉強して、学校は息抜きをしに来ているようだねえ」と先生に言われたこともありますが、今では、反省しています。



中学・高校生時代

桐蔭学園

受験戦争の結果、私は神奈川県の桐蔭学園に進むことになりました。

当時から、桐蔭学園では、科目ごとに、能力別のクラスになっていました。このシステムは、自分の実力に合った授業が受けられるというメリットもあるのですが、一方で、自分の学力が嫌というほど、よく認識できるようになっています。

院長の生い立ち

私は、数学は得意でしたので、上位のクラスでしたが、英語は、苦手でした。下から1番目と2番目のクラスを行ったり来たりといった状態でした。

数系クラスは、いわゆるガリベン君ばっかりでした。10分休みですら、問題集をこなすような生徒ばっかりのなかで、必死にマネをしてついてゆきました。

こんな調子で、常に勉強、勉強と追い立てられ続けの6年間でした。

右の写真は、中学2年生の頃の私 佐藤歯科45周年パーティーにて、初代院長の佐藤文悟(右)に、孫代表として、未来の三代目の私が記念品を渡しています。

院長の生い立ち

左の写真は、高校1年生の時の私 クラスメートの5~6人の間で、昼休みの食事後、懸垂で体を鍛えるのがブームになりました。 みんなで競い合い、連続60回できるところまでいったのは、良き思い出です。




大学受験

国立歯学部を志望

高校3年生になり、ついに大学受験がやってきました。私の場合、国立の歯学部を志望しました。

歯学部を志望した理由は、お気づきの通り、祖父・父と歯科医師であったことが大きな影響を与えていました。

中学生の夏休みの頃、父は良く私を仕事場である診療所へ連れて行きました。一日中、受付の裏で勉強をさせられていた訳です(笑)

しかし、私にとっては、働いている父の後ろ姿を見る良い機会でもありました。祖父、父ともに歯医者であることに加えて、この夏休みの父との時間が、私が、歯学部を受験するということに向かわせたと思います。

院長の生い立ち

また、国立を志望した理由は、単純に、偏差値に対する挑戦でした。

ご存知の通り、国立大学の方が一般的に難易度が高いです。

上昇志向が強いというか、努力はするものだ、と思っていましたので、少しでも高いハードルを設定して達成したかったのです。

結局、現役受験は、私立の歯学部は、2校合格。しかし、国立大学は 不合格という結果でした。

進路の決定にあたり、父より、「浪人して国立を目指すか、このまま私立に入学するか?」と問われ、私は、「受験勉強は疲れるからこのまま私立に入学します。」と答えました。

そして、「そんな根性じゃろくな歯医者にならん。浪人せい。」

 

国立にこだわって勉強していた割に、いざとなると弱気を見せた私は人間として未熟、と感じたのでしょう、これから私の浪人生活が始まります。



九州大学合格

歯科医師への志が固まる

浪人生活は、お茶の水の駿台予備校で送りました。また、ライバルが近くにいないとモチベーションが下がると思い、予備校の寮に入れてもらいました。駿台予備校の寮は、千葉の下総中山という田舎(当時)にあり遊べませんし、また4人部屋なのでライバルがどのくらい勉強するのかイヤでもわかります。

院長の生い立ち

そこでの生活は、起床~朝飯~予備校へ。予備校から帰寮~ちょっと休憩してすぐ勉強~夕飯・風呂~11時まで勉強~寝る(テレビはもちろん存在しません。携帯もPCもない時代です)

これをただただ繰り返すのみでした。

同時に、私にとって歯科医師への志が固まったのも、この浪人生活でした。

歯学部の受験には、小論文があります。そして、小論文対策というのを行います。

しかし、当時の私にとって、「歯科医療とは?」や「今後の歯科医療が、どのように社会に貢献していくのか?」なんてことは、正直、ピンときませんでした。

院長の生い立ち

そんな折、自然と父に小論文対策を教えてもらうようになりました。父は、色々な歯科医業に関する話しをしてくれました。

医科に比べると歯科は命に関わらないと思われがちだが、人は人生において、何万回と食事をする。そして、人間は栄養が取れなければ死んでしまうんだ。人にとって食べるということは大切なんだ。生死にもかかわるし、食べることの幸せが、人の幸せにもつながる。

という話しは、今でも鮮明に覚えている父の言葉です。

この言葉で、何となく目指していた歯学部が、自分の中で、やりたい仕事として明確になりました。

また、出願の前日になった父親と話したことが、受験において私の力になりました。 「医学部の受験もしたいと実は、思っているんだけど・・・」 「なぜだ?」 「医者のほうが人の役に立っている気がして、外科医になりたい。」 「どうしても医者になりたいって言うなら止めないけど、受験料は出さないよ。学費とか下宿代とかも自分でなんとかしなさい。それでも自分は医者になるというなら無理に止めようとは思わないが、おまえには歯科医になって佐藤歯科を継いでもらわないと困るんだ。」

実は父親に「歯科医になれ」とか「佐藤歯科を継げ」とか言われたのはこれが最初で最後でした。

以前とは違い、「父のために」というもう一つの目的も加わってより強固な意志のもとにがんばれたような気がします。

こうしてようやく九州大学の歯学部に入学することができました。

▼前の記事と次の記事

≪ 自費料金表 |

▼「佐藤歯科院長の生い立ち」関連記事